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特集

横浜から次世代映画人の輩出目指す。
映画文化を育む独立興業師の挑戦

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■映画発祥の地としての横浜

横浜で初めて映画が上映されたのは1897年(明治30年)、劇場は現在の横浜市中区住吉町にあった「港座」。諸外国との貿易港だった横浜には多くの商社が生まれ、その取扱品のなかには外国映画のフィルムもあった。1911年(明治44年)には日本最初の洋画専門館として、現在の伊勢佐木町通りの中心に横浜「オデヲン座」がオープン、映画先進国であるイタリアやフランスから輸入した作品が、どこよりも早く上映され、異国の最先端の文化が映像を通して日本に入ってきた。海を越えて運ばれた荷の封を切って最初に公開することから“封切り”という言葉も生まれた。オープン当事、横浜「オデヲン座」は外国映画封切専門館として映画ファンが集う、横浜文化の象徴とも言うべき存在だった。

横浜には1920年(大正9年)、現在の元町に映画の撮影所「大正活映」ができ、当時としては非常に画期的と言われる近代映画を数多く生み出した。撮影所を中心に映画人が集い、多くの横浜生まれの映画が制作された。伊勢佐木町には数々の映画館が立ち並び、関東大震災を経ても尚、横浜の映像分化を担ってきた。日本の映画産業の最盛期である1950年代後半には全国の映画館数は7,000館を超え、1960年には7,457館となった。当時、横浜にも70を超える映画館があった。

大正中期の伊勢佐木町、左手前の看板が横浜「オデヲン座」 丸岡澄夫さんが編集した『封切館 オデヲン座資料集1911-1923』

■シネコンの乱立で変わる映画の産業構造

しかしテレビが登場すると映画は娯楽の王様の座を奪われ、映画館数は減少の一途を辿ることになる。1970年には全国の映画館数は3,246館と最盛期の半分以下となり、1993年には1,734館にまで落ち込んだ。しかし同年に外資系のシネマコンプレックス(シネコン)が開業、複数のスクリーンを持つシネコンが郊外を中心に建設されるようになり、徐々に映画館数とスクリーン数は増加。日本映画製作者連盟の発表によると、2004年には全国で2,825スクリーンとなり、2005年度も増加傾向にある。その内訳を見ると、1993年から2004年までの間で、新規開業が2,182館、休閉館が1,112館。つまり、名画座などの独立系の小さな映画館が経営難から休館・閉館していく一方で、大手資本によるシネコン建設ラッシュが起こっており、興業の産業構造が大きく変化しているのだ。

社団法人 日本映画製作者連盟
シネマトークが製作した明治時代からの映画館マップ シネマトークが製作した明治時代からの映画館マップ

■興行師として横浜の映画文化を支えてきた福寿さん

映画産業の衰勢を見守ってきた街・横浜で半世紀にわたり映画に携わってきた人がいる。映画興行師の福寿祁久雄さんだ。今年で70歳になる福寿さんは、根っからの映画人。学生時代、映画監督になることを夢見ていたが、当事は東大卒のエリートが映画会社に入り助監督になる時代。花形であった映画業界への就職は今以上に困難だったため、現場に少しでも近づこうと高校生の時から叔父が経営する映画館で看板師として活動した。やがて福寿さんは制作ではなく興行という立場で映画文化を広めていこうと決心し、独立系の映画館の興行師となる。「横浜日劇」、「シネマ・ジャック」、「シネマ・ベティ」、「関内MGA(旧関内アカデミー)」、「ヨコハマ・シネマ・ソサエティ」、「シブヤ・シネマ・ソサエティ」の6館7スクリーンを経営する中央興業で長年にわたり映画を上映し、映画文化の発展に尽力してきた。「横浜日劇」は映画『私立探偵 濱マイク』シリーズの舞台になった映画館として有名である。

近年は横浜中心部にもシネコンが進出し、中央興業も経営悪化に悩まされていた。そこに昨年10月、台風22号の大雨で横浜駅西口の地下にある名画座「ヨコハマ・シネマ・ソサエティ」が深刻な浸水被害を受け、廃館を余儀なくされた。加えて9月に会長が死去し、精神的な支柱を失っていたこともあり、中央興業は廃業を決意。「ヨコハマ・シネマ・ソサエティ」と「横浜日劇」は廃館となり、それ以外の館は経営譲渡した。福寿さんは、シネコンに押されて独立系の映画館が廃業していく現状の問題点をこう語る。「シネコンが乱立し、当たる映画ばかりが上映されるようになると、地道に映画ファンを育てようと頑張っている独立興業は厳しい。アメリカ映画を上映しても収入の7割をもっていかれ、大手が支配する配給制度や産業構造としてとりこまれてしまう。シネコンでは客が入らない映画はすぐに打ち切られる。ビジネスの観点はもちろん大切だが、多くの人が入る作品が必ずしも良い作品であるとは限らない。良質な作品を映すことで作り手や観客を育てていくことも映画館の大切な役目なのです」。

ジャック&ベティが「ファイブコインズ・シネマ」で再開
映画興行師の福寿祁久雄さん 廃館となった横浜日劇 廃館となった横浜日劇 『私立探偵 濱マイク』シリーズの舞台になった

■新しい才能を発掘する市民映像祭「横浜映像天国」

そんな福寿さんは、数年前から若手の映画人を育てるための活動を始めている。その活動のひとつが自主制作映画を上映する横浜市民映像祭「横浜映像天国」の開催。横浜市内で、自主制作映画を撮り続けてきた映像作家、斉藤俊之さんを主催とするスワロー映画倶楽部と、1990年代より市民映像の支援をしている横浜市岩間市民プラザが中心となってスタートした「横浜映像天国」は、「様々な想いでつくられる映像作品をみんなで同じスクリーンで見ることによって作者の気持ちを発見してみたい」と10年続けられている映画祭。一次審査を通過した6作品を上映、観客の投票によってグランプリと各賞を決めるというもの。今年は写真家の森日出夫氏、ラジオパーソナリティーの吉江みや氏、神奈川新聞元文化部長・映画担当の服部宏氏が審査員となり上映作品についてバトルトークを行った。また招待作品として2004年オーバーハウゼン国際短編映画祭 国際批評家連盟賞を受賞した金井勝監督作品『スーパードキュメンタリー 前衛仙術』も上映された。

横浜映像天国 自主制作映画の上映会「横浜映像天国2005」開催

福寿さんは「現在日本で『映画祭』と銘打たれている物は、『プロの映画人とそのファンが親しむ場』や、『地域活性化を目的とするお祭』の意味合いが強く、若手育成の趣旨から遠い。横浜映像天国は、純粋に映像という分野の若手を育てる本物の『映画祭』を目指していきたい」と語る。本来の映画祭の役割とは、新しい才能を発掘し、インディペンデント映画など世の中にまだ広まっていない価値ある映画の上映機会をつくっていくことだ。その意味で「横浜映像天国」や、国内外の学生の秀作を集める「横濱学生映画祭」は映画祭のあるべき姿を目指しているものであると言えるだろう。

横濱学生映画祭2005 公式ブログ 「横濱学生映画祭」映像作品を募集 -北京電影学院と共催 日中映画産業の架け橋を目指す!国際化する「横濱学生映画祭」の全貌
横浜映像天国

■次代の映画人を育て、発表の場を与える

また、福寿さん自らプロデューサー的な役割を果たし、プロの映画人を目指す若者を育てる「シネマ・ダッシュ・チーム・ヨコハマ」も5年前に結成。「映画を愛し、自らの手で撮影、上映、鑑賞する」をモットーに、映画学校の卒業生等など「映画業界をめざす」人たちが集まり、週1回のディスカッション・勉強会、自主映画の企画・製作を行っており、現在の構成人数は35人。「業界の動きを知らずして、映画は作れない」と、福寿さんは技術や芸術的側面だけでなく、映画業界のしくみや流通、現状も教えているという。シネマ・ダッシュ・チーム・ヨコハマは「横浜映像天国」の運営も行っており、その他商業映画への協力、横浜映像天国の運営・審査、神奈川・横浜国際映像月間、横浜フランス映画祭のサポートなども行っている。

デジタルビデオカメラが普及し、若者にとって映像は身近なメディアとなり、映画業界で働きたいと考える若者は多い。彼らは皆それぞれに自主制作映画を作っているが、その多くが作品発表の場に恵まれていない。上映するには会場や機材を確保し、自分で宣伝までしなくてはならず、時間的・経済的なコストがかかり、容易にできるものではないからだ。そこで、横浜市内の映像作家で25年以上自主制作映画を撮り続けてきた、スワロー映画倶楽部代表の斉藤俊之さんが発案者となって、福寿さんと共に考え出したのが「横浜自由映画劇場」。映像作家に自由な発表の場と観客との出会いの機会をつくり、新しい才能を発掘・育成することが目的。最大の特徴は「選考のない上映会」であることだろう。「画家を目指す人は、ギャラリーを借りて自分の絵を自由に見せることができる。なぜ映画にはそういった場所がないのか。横浜自由映画劇場では映像アンデパンダン(無審査の美術展)としてチャンスを求める若者を支援していきたい」。

「横浜自由映画劇場」の全体の上映時間は2時間と決められており、公募で集まった作品を無審査で先着準に上映する。会場は、桜木町・野毛にある大衆芸能の専門館「横浜にぎわい座」の小ホールで、年4回の定期開催。また、ユニークなのはその料金設定だ。出品者は1作品につき1000円と、上映する作品の長さ(1分間につき100円)に応じて参加費を払う。通常、自前で上映会を開催すると会場費、機材レンタル・搬入費などで数万円はかかることを考えると、驚くほど低コストで作品を上映することができるのだ。映画鑑賞料として客が支払うのは1分当たり5円の料金。2時間全て見れば、600円という計算になる。今年8月6日に開催された「第2回横浜自由映画劇場」では、第5回宝塚映画祭でグランプリを受賞し、第55回ベルリン国際映画祭で上映された短編映画『Green Tea-r 緑色の涙』など4作品を上映された。『Green Tea-r 緑色の涙』は、シネマダッシュチームヨコハマに所属する木内一裕氏が監督。母の被爆体験を元に制作したエンターテイメント短編作品で、国内・海外の都市で上映されている。

横浜自由映画劇場、原爆の日に映画『緑色の涙』を上映 GreenTea-r 緑色の涙 横浜にぎわい座
第2回横浜自由映画劇場で上映された『Green Tea-r 緑色の涙』 第1回横浜自由映画劇場で上映された『田んぼdeミュージカル』 横浜自由映画劇場の会場である横浜にぎわい座 横浜自由映画劇場の会場である横浜にぎわい座

■これからの「映像」を担う若者へのメッセージ

「映画は、演劇等と違ってフィルムさえ出来上がってしまえば、全世界に発信することが出来るこれ以上ないメディア。」という福寿さん。半世紀以上も映画に関わってきた映画文化の担い手として、新たなる才能を発掘・育成して行きたいと願っているが、現在の日本では「若手を育てる環境に限界がある」と苦言する。名作を紹介する伝統的な映画館は閉鎖され、映像文化を伝えていくことが難しくなった。「中学生でも高校生でも、自分が理解出来ないぐらいの『大人の映画』を見るといい。解らない事だからこそ、心に刻まれ、記憶する。自分の感性がそこに追いついた時、初めて自分が人間として成長出来たことが実感できる。映画はそういうものだという事を解っていて欲しい。今理解できる事だけをエンターテイメントとして楽しむだけでは、何も心に残らないのだから」。

福寿さんは、映像教育の点で、日本は遅れていると指摘する。「今の若者が撮る自主制作映画は、鬱屈な主人公が多い。社会から距離を置き内向する人物を描くのはいいが、逃げたままで、そこで何を掴んでくるのかを描いていない。『何があってもこれを描きたい』という強い想いをもつこと。そして活力に溢れていなければ人を感動させる映画を撮ることなんてできない。ある程度の強制があってこそ、反骨精神や活力は生まれてくるもの。自由な時代に育った今の若者に欠けているものかもしれません」。また、映画人を目指す若者はプロ意識を持つことが大切だと言う。「アマチュアだから自由に作っていいとか、無料で上映してしまうなど、変にプロとアマを分けてしまうのが日本人の悪い癖。アマチュアであっても観客のことを考えて作品をつくり、観客からちゃんとお金をとれるものを作っていかなければ絶対にプロにはなれないでしょう」。興業の立場から離れた福寿さんは、長年の夢であった制作にも挑戦するという。「いま、野毛を舞台とした映画の脚本を書いています。制作費は1億円の予定で、市民が映画に投資できるようになったので、半分の5000万円は市民から集めたいと思っています」。

2004年12月30日、82年ぶりに信託業法が改正され、映画製作資金に「外部資金」を取り込めるようになった。映画文化を育むためには、このような映画製作の資金を集める新しい仕組みと、それを支えるサポーターの存在が不可欠であるといえるだろう。

横浜市では「文化芸術創造都市」の実現に向け、映像系コンテンツ産業などの集積や人材育成・支援を図り、アジアやEUとの連携も視野に入れて映像制作、発信、交流の場としての横浜を目指している。長年に渡って映画の「現場」に携わってきた福寿さんの知識と経験は、映像文化都市を目指すヨコハマにとって、大きなプラスとなっていくだろう。19世紀後半のフランスを起源とする「アンデパンダン」は当時のフランス政府が実施していた展覧会の審査に漏れた画家や反アカデミズムの画家達が作ったものだった。その中にゴッホやルソー、セザンヌといった画家達が参加していたように、ここから世界に通用する映画監督が生まれてくるかもしれない。生涯をかけ、映画に情熱を傾けてきた「映画人」のスピリッツ。その活動が、横浜という枠を超え、日本の映像文化を切り開いて行くことを期待したい。

弓月ひろみ + ヨコハマ経済新聞編集部

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