特集

「横浜松坂屋」が10月26日に閉店・解体へ!?
どうなる横浜歴史的建造物、どうする伊勢佐木

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■幕末の野澤屋呉服店を起源とする横浜の老舗

 横浜松坂屋の閉店が、親会社であるJ.フロント リテイリングより発表されたのは、6月24日。過去25期連続で百貨店事業の営業赤字が続いており、業績面から見ると仕方ない面もあるが、長らく伊勢佐木町のシンボル、ランドマークとして横浜市民に愛されてきたデパートであり、寂しさは禁じえないものがある。
 1992年に年間売上高約300億円を記録して以来、バブル崩壊、横浜駅前やみなとみらい21の商業パワーに押されて売り上げは減少。2008年2月期にはその3分の1ほどの約87億円にまで落ち込んでいた。
明治30年頃の野澤屋 横浜松坂屋の歴史をざっと振り返ってみると、前身は幕末の元治元年(1864)に、生糸産地であった群馬県高崎市出身の茂木惣兵衛が、弁天通4丁目に創業した野澤屋呉服店にさかのぼり、明治43年(1910)伊勢佐木町1丁目に支店として百貨店をオープンした。 明治期の横浜商人の代表格であった茂木家の事業は、生糸を中心に銀行、不動産など多岐にわたっており、本牧の三渓園に当時の隆盛がしのばれる原家と並び称される財閥を形成したが、大正時代の世界大恐慌で崩壊。「野澤屋」の暖簾を惜しむ財界人によって、大正10年(1921)株式会社野澤屋呉服店が設立されて、百貨店事業は継続された。昭和2年本建築完成当時の野澤屋 2年後の関東大震災で被災したが、間もなく再建され、昭和3年(1928)株式会社野澤屋に改称した。昭和20年(1945)の横浜大空襲では、本館は奇跡的に空襲を逃れた。戦後一時期進駐軍に接収され、営業は吉田町などの仮営業所で続けられたが、昭和28年に2階以上が接収解除、30年には全館復旧した。昭和35年(1960)東京証券取引所に株式上場、翌年同第1部上場。49年株式会社ノザワ松坂屋に改称。さらに、52年(1977)横浜松坂屋に改称、鶴屋呉服店を前身とする旧松屋横浜支店を取得して、西館とした。平成15年(2003)には松坂屋の完全子会社となり、上場は廃止されていた。

横浜松坂屋

J.フロント リテイリング

ゆず生誕の地「横浜松坂屋」が10月に閉店解体-144年の歴史に幕(ヨコハマ経済新聞)

■J.フロント リテイリングの経営改革で閉店に

 このように横浜松坂屋は144年もの伝統を持ち、松坂屋の子会社となっていたものの、独立した法人として、本体の松坂屋からは異なった文化を尊重されてきた。近年は代表者など数人の役員が松坂屋から送り込まれてはいたが、人事も独自に行っており、古参社員には野澤屋の頃から勤める者もいて、松坂屋本体とは配送のような物流面では統一されていても、人事面の交流はほとんどなかったという。

 JRAに貸している西館百貨店では確かに赤字であったが、横浜松坂屋では平成12年(2000)に西館をJRAに貸して、有料会員制の場外馬券場に変わって以来、その賃料収入で経常黒字は達成しており、事業全体が完全に行き詰っていたわけではなかった。しかし、松坂屋は折からの流通・百貨店再編の動きの中で、大丸と経営統合して昨年9月にJ.フロント リテイリング株式会社を設立。 百貨店業界で最大手となった(現在は今年4月に三越伊勢丹ホールディングスが設立されたために、2位)。この持株会社であるJ.フロントリテイリングのもとに、子会社として松坂屋と大丸がぶら下がり、その松坂屋の子会社、ひいてはJ.フロント リテイリングの孫会社として横浜松坂屋があるという形に移行した。
 J.フロント リテイリングは、経営改革が進んでいる大丸の主導で、利益率の高い百貨店運営を目指している。平成19年(2007)度の大丸の売上高利益率は百貨店業界で最高水準の4.1%、それに対して松坂屋は半分の2.1%にとどまっており、東京の銀座、上野両店や、大阪の高槻店も営業赤字であった。そうした状況で、慢性的な営業赤字が続く、横浜松坂屋の存続は許されないという経営判断だったのだろう。ましてや、米国のサブプライムローン破綻に端を発する世界同時不況や、ガソリン高騰の影響で、百貨店の売り上げも悪化しており、J.フロント リテイリングとしては、血を流してでも改革を断行する姿勢を示す必要があった。なお、大丸の側も、愛媛県の今治大丸が今年12月に閉店となる決定がされており、松坂屋とは痛み分けの形になっている。

■歴史を無視した建て替えは街の伝統を破壊する

 当初、J.フロント リテイリングの発表では、老朽化して耐震性に問題のある、横浜松坂屋の現状の建物を壊して撤去。新たに高層ビルを建設して、低層階に食品スーパーなどの商業施設を入れて、マンションにするといったイメージであったが、寝耳に水の話に驚いたのは横浜市である。
 横浜松坂屋本館は、西館とともに、平成16年(2004)に「歴史を生かしたまちづくり要綱」に基づいて、「横浜歴史的建造物」に認定したばかりであった。その際には市からは4,383万円を助成して、すす汚れていたアール・デコ調の外壁の洗浄など改修工事に充てられていた。
 つまり、市民の血税より約4,400万円を出しておいて、たった4年で解体では、何のための「横浜歴史的建造物」なのか、わからないのである。もちろん認定された建物が取り壊されるのは初めてである。「8月25日付でJ.フロント リテイリング様に、今の技術では全部壊さなければ耐震性が確保できないわけでなく、外壁の保存は可能なはずですから、協議したいと申し入れました。やっと今、口頭ではありますが、外壁は残すと態度を変えて来られるところまできたところです。横浜歴史的建造物は景観の認定ですし、建物の中については、このご時世ですから百貨店のまま残して欲しいとは言っていません。ただ、全部マンションでは商店街の建物としてまずいです。今の感触では、商業撤退はないと判断しています」と語るのは、横浜市都市整備局都市デザイン室の秋元康幸室長だ。

 横浜市の協議申し入れに先立って、社団法人日本建築家協会神奈川地域会、NPO法人横浜プランナーズネットワーク、横濱まちづくり倶楽部、NPO法人日本都市計画家協会横浜支部、UDCY横浜アーバンデザイン研究機構、NPO法人横浜シティガイド協会といった市民団体6団体は8月9日、「どうなる松坂屋 どうする伊勢佐木」というシンポジウムを横浜情報文化センター・情文ホールで開催。吉田鋼市・横浜国立大学教授の基調講演、鈴木伸治・横浜市立大学准教授をコーディネーターとしたパネルディスカションを行って、横浜松坂屋の閉店は伊勢佐木町の歴史的資産を生かした発展を考える機会としたいと、協議を始めていた。
 また、日本建築学会関東支部からは、8月1日に、「松坂屋本館保存に関する要望書」がJ.フロントリテイリング、松坂屋、横浜松坂屋に提出されている。つまり、「みなとみらいなどと異なる関内・関外の魅力は、伊勢佐木町を含めて、古い建物が残っていることにあります。それが無くなってしまうと、ほかの街と同じになってしまいます。これはまちづくりの根幹部分ですから、市としても譲れないです」(前出・秋元氏)と、行政そして、市民団体、有識者からも解体・撤去に待ったがかかった。現存する横浜の百貨店では、唯一明治よりの伝統を持つ横浜松坂屋が、影も形もなく建て替えられてみなとみらいの高層ビルのようになる再開発計画は、とりあえず阻止された模様である。

横浜市、松坂屋本館など4件を歴史的建造物に認定(ヨコハマ経済新聞)

横浜市が横浜松坂屋のアールデコ調の外観の保全を申し入れ(ヨコハマ経済新聞)

■文豪・夏目漱石の義弟、鈴木禎次の晩年の傑作

アール・デコ調の外壁のデザインは評価が高い 横浜松坂屋本館の建築としての歴史的評価は、「横浜歴史的建造物」に認定された時の横国大・吉田教授の意見によれば、「横浜の戦前のデパート建築を文字通り代表するものであり、我が国の昭和初期のデパート建築を代表するものの一つとして大変貴重なものである」というものだ。日本建築学会の要望書を要約すると、鉄筋コンクリート造7階建て、地下1階塔屋付き、建築面積3212.83平方メートル、延床面積21597.50平方メートルの建物である横浜松坂屋本館の外観的な最大の特徴は、「全面が白い四丁掛のタイルで覆われ、かつ要所にきわめて濃密な意匠を施されたテラコッタが配されていることである。その意匠はわが国のアール・デコの代表例とも見なしうる」としている。
 そして「外観の主部分は昭和9年に形づくられたものと見なされ」、「創建時の設計者は出浦高介であるが、昭和4年、9年、12年の増改築の設計者はいずれも鈴木禎次(1870−1941)であり、(中略)横浜松坂屋は彼の晩年の大作であり、彼の代表作品である」とのことだ。夏目漱石の義弟、鈴木禎次の晩年の代表作

 建築家・鈴木禎次は明治3年静岡市に生まれ、帝国大学で建築を学び、フランス、イギリスに留学。明治39年(1906)より名古屋高等工業学校建築科教授・同科長として赴任し、16年間教鞭をとった。退官後は、名古屋市内に設計事務所を構えて、木造建築が主流だった名古屋の街を、石造り、レンガ造りに大変身させた人物であった。名古屋の当時のメインストリート、広小路通だけでも、彼が手掛けた作品が十棟ほどあったと言われている。
 各地の松坂屋本・支店も鈴木が設計していた。日本の建築史上、重要な建築家であり、教育者でもある鈴木の作品は、戦災を受けたために現在では名古屋にもあまり残っておらず、たとえば鶴舞公園の噴水塔や奏楽堂に、華麗な意匠がしのばれるのみである。また、鈴木は文豪・夏目漱石の義弟にあたり、安楽椅子の形にデザインされた雑司が谷霊園にある漱石の墓は、鈴木の設計によるものだ。
 こうして、横浜松坂屋本館の歴史的意義を見ていくと、日本の商業史、建築史両面において、横浜そして伊勢佐木町の誇るべき、かけがえのない遺産であることは明らかである。確かに経済情勢は厳しいが、効率性のみを基準にして安易に解体・撤去させていいものかと考えざるを得ない。

■ゆずのブレイクを生んだのが最後の輝きなのか

閉店セール開催中の横浜松坂屋 さて、閉店を間近に迎えた横浜松坂屋は、平日の午前中といえども、とても賑やかである。9月は松坂屋各店で売り上げを落とし、直営8店が前年比10.6%減だったのに対して、横浜松坂屋は閉店セール効果で同66.2%増と大幅な売上増であった。
 また、大丸の百貨店事業も同7.0%減と不況の影響が顕著であった。「普段からこれくらいのお客さんがいらっしゃっていれば、良かったのですが。平日はがらがらでしたからね」と残念がるのは、横浜松坂屋販売促進部・長岡達也係長。確かに、全盛時を彷彿させるような活気があり、伊勢佐木町にも一時的に人通りが増えて華やいでいるように見える。 主な顧客は、半径3キロメートル以内の地元住民とのことで、昔から店のファンだったと思われる老夫婦や、シニアの団体の来場者が多い。今は、1階のインフォメーションで受付を済ませると館内の写真が自由に撮れるので、写真機持参の人も目立つ。
 かつては、横浜駅、桜木町まで送迎バスを運行し、文字通り横浜の商業の中心だった横浜松坂屋は、関内のローカル百貨店にまで地位を落としていた。

 伝統ある百貨店だけに、美術的価値があるものは外壁ばかりではない。エスカレーター横の装飾や、エレベーターの上に設置された時計のようなどの階に止まっているのかを示す機械、階段に設置されているどの階かを示す標識などは、アンティーク・コレクターとしてはぜひ欲しいものだろう。「いろんな人から分けてほしいと問い合わせがあります。私としては、個人の収集家ではなくて、どこか公的な博物館などに引き取ってもらえたらと思っているのですが」と長岡係長。

 屋上に上ってみると、かつて子供たちで賑わった遊園地は撤去されて久しく、なにもない空間になっている。そして、出入口の正面には、横浜松坂屋前の路上ライブから、メジャーへと駆け上ったゆずの2人の壁画が描かれていた。日本がまだ貧しく、高度成長の階段を駆け上がった昭和の時代、百貨店は文字通り百貨を売り、家族で出かける最強の行楽地であった。しかし、物質が豊かになった現代では、ショッピングは郊外のショッピングセンターに出かけるか、ファッション、家電、インテリアなどと分野を絞った専門店に地位を奪われた。
 また、レジャーでは、ディズニーランドのようなテーマパークや旅行がよりダイナミックな非日常に連れ出してくれるようになっている。そうした中で、ゆずのブレイクは、横浜松坂屋が紡ぎ出してきた夢の、最後の輝きであったと言えよう。平成15年(2003)、ゆずの紅白歌合戦初出場時には、横浜松坂屋前からライブ中継を行った。平成10年(1998)8月30日のラスト路上ライブでは、台風襲来で豪雨という天候の中、約7,500人のファンが集結した。この年、横浜ベイスターズが38年ぶりの日本一となり、横浜高校が松坂大輔投手を擁して甲子園の春夏連覇を達成と、横浜がクローズアップされる年となったが、その中心の1つに横浜松坂屋があった。

松坂屋屋上で閉店惜しみライブイベント−FMヨコハマ番組企画(ヨコハマ経済新聞)

■古参社員の知恵の結晶で「あずま丼」が復活した

 横浜松坂屋7階には、今では百貨店でも少なくなった「お好み食堂」が、ずっと残っていた。窓のステンドグラスや壁の照明のデザインには、古いものが今も継承されているという。30代以上の人は、子供の頃、両親に連れられて百貨店の「お好み食堂」で「お子様ランチ」を食べ、屋上でおもちゃの汽車やメリーゴーラウンドに乗って遊んだ記憶のある人は多いと思う。そこで、オーダーして、「お子様ランチ」を作ってもらった。
 果たして出てきたものは、ワンプレートの上に、エビフライ、ハンバーグ、オムレツ、サラダ、ふりかけの掛かったご飯などが盛り付けてあり、内容的にはあまり変わらないと思われるものの、カフェ飯のような雰囲気さえあって、現代的にアレンジされていた。日の丸の旗が立ったオムライスまたはチキンライスと、みかん、バナナのような果物がないだけで、ずいぶんと違って見えるものだ。 それとおまけに、おもちゃのルーレットが付いてきたのも、さすが食玩大国・ゲーム大国の現代日本といったところか。
 かつて20年ほど前に出していたメニューがオールドファンの要望で、閉店セールを機に復活したのが「あずま丼」。要はマグロのヅケ丼なのだが、酢飯ではなく白飯を使い、やや甘めの醤油のタレがなかなか旨い。古参社員のアドバイスなどをもとに、再現させたもので、当時と同じく生バチマグロを使っている。こういった、社員の知恵の蓄積も、横浜松坂屋の築いてきた資産だ。閉店後、社員は退職希望者を除いて再雇用される方針で、松坂屋や大丸などの別の店で働くことになる。

歴史的建造物「横浜松坂屋」が閉店を前に店内撮影会(ヨコハマ経済新聞)

松坂屋で閉店セール−お好み食堂で20年前の人気メニュー復活も(ヨコハマ経済新聞)

■横浜は歴史的な外観を残す高層建築の実績がある

 それでは、過去に歴史的な建物の外観を残しながら、新しい建物へと再生した例がないものか、考えてみよう。 全部一度壊して、インテリジェンスビルを建て、外壁の部分をくっつけたのが、馬車道の「日本興亜損保横浜ビル」(旧川崎銀行横浜支店)である。
 この建物は大正11年(1922)に建てられたネオ・ルネッサンス様式の石造建築で、大震災、戦災も乗り越えて街のシンボルとなっていたが、老朽化が進み、昭和60年(1985)に建て替えられることとなった。 地元の馬車道商店街や横浜市は、優美な建物の保存を強く希望。そこで、当時の日本火災海上保険(のちに興亜火災海上保険と合併して、日本興亜損害保険となる)は、保存調査委員会を関係者と結成。 最新のコンピュータグラフィックを使い、旧ビルの外壁部分を残したまま、ミラーガラスの現代的なオフィスビルと組み合わせた斬新なデザインが完成した。
 企業とコミュニティの融合という面でも、非常に意義あるモニュメントであり、「横浜歴史的建造物」認定第一号になるとともに、この制度ができるきっかけとなっている。現在までに、日本建築学会文化賞、建築業協会賞、建設省まちづくり功労者賞など、数々の受賞歴を誇っている。
 このように遺産の保存とまちづくりの融合という点で、すでに横浜市は良き前例を持っており、学ぶべきことは多々あるだろう。ただし、横浜松坂屋の場合は外壁がタイルなので、剥がして付け直すのは困難だ。よって、建物の通りに面した部分は残して、後方に高層ビルを建てることを検討しなくてはならない。そんなことは可能なのかというと、やはり横浜市には先例がある。
 

 みなとみらい線日本大通駅前の平成12年(2000)にオープンした「横浜情報文化センター」は、関東大震災復興記念に造られた「横浜商工奨励館」を残しながら、その後方に新築の高層ビルを増築したもので、昭和初期の洋館建築を今に伝えている。改修工事中の平成11年に「横浜歴史的建造物」に認定された。
 旧「横浜商工奨励館」には貴賓室や階段、1階に入居するレストランなどに往時の空間がそのまま保存されている。「横浜情報文化センター」が、情文ホール、日本新聞博物館、放送ライブラリー、オフィスなどを備えて、日本大通の賑わいづくりに一役買っているのは周知のとおりである。横浜市がJ.フロント リテイリングに対して「歴史的建造物を残すことは技術的に可能」と断言するのは、先例に基づく根拠のある話なのである。確かに外壁の保存など考えずに建て替えたほうがコストは安上がりだが、横浜松坂屋の価値は金銭ではかれない街のシンボルであるということだ。確かに経営環境は厳しいが、J.フロント リテイリングは歴史ある老舗百貨店の連合体たる大企業なのだから、社会的責任としてせめて外壁は残してもらいたいものだ。

横浜市 歴史を生かしたまちづくり 認定歴史的建造物一覧

「松坂屋」閉店後の伊勢佐木町の未来を考えるシンポジウム(ヨコハマ経済新聞)

■近くのマンション住民は郊外に車で買物に行く

 さて、最後に伊勢佐木町の今後であるが、きわめて厳しい現実が待っていると思われる。浜銀総合研究所のデータによると、平成3年(1991)に伊勢佐木町全体の小売の売上高が約680億円あったものが、14年(2002)には約330億円と、10年ほどの間に半分以下に縮小している。そのうち横浜松坂屋の売り上げは3割近くもあるのだから、無くなってしまうと商業パワーの衰退に拍車が掛かることが懸念される。横浜松坂屋に代わるというより、それ以上にパワフルな商業施設が、早急につくられることに期待したい。
 向かいの有隣堂本店の売り上げは過去、横浜松坂屋の定休日には2割ほど落ちていたらしい。すでに集客減対策として、文具売場を書籍売場に移転させる縮小案が検討されている。他の店への影響も多大であるに違いない。「伊勢佐木町を含め、関内地区にはマンションが増えて、住民が増加しています。ところが、新住民は伊勢佐木町に行っても買いたいものがないからと、車で郊外のショッピングセンターに買物に行ってしまうのです。そこが最大の問題です」と語るのは、浜銀総合研究所調査部・新滝健一氏だ。
 新滝氏によれば、ここ10年間伊勢佐木町で失われた小売金額は、そっくりそのまま、みなとみらい21に移ってしまったとのことだ。都心回帰の流れで、環境は良くなっているのに、時流に乗った商品の品揃えのセンスがないので、そのチャンスが生かせないのが商店街の弱味だ。
 横浜松坂屋の閉店後の伊勢佐木町の未来を考えるシンポジウム「どうなる松坂屋 どうする伊勢佐木」の主催者の1つであり、空き店舗の活用や若手アーティストと商店街のコラボレーションなどを通じて街の活性化を目指す地元住民の拠点「ザキ座」を運営する横浜プランナーズネットワークの櫻井淳氏は「伊勢佐木町はまだ1、2丁目はイセザキモールの1つの町内会でまとまりがありますが、その奥の3~7丁目までは、距離も長く、伊勢佐木町としてまとまりにくいのが現状です。

 かつて映画の街として栄えたイセザキと言っても、現在は、映画館が周辺で2館しか残っていません。丸井も、その跡に入ったカレーミュージアムも無くなって、不穏な動きが噂される有隣堂とユニーしか、大型店もなくなってしまったのですから、もっと危機感を持ってもらわないと」と、伊勢佐木町の結束と危機感の共有を訴えている。かつて青江美奈が歌った、映画館のネオンがきらめく伊勢佐木町はもうない。
 関内、伊勢佐木長者町、阪東橋、黄金町、日ノ出町と最寄り駅は多いが、いずれも駅前から微妙に離れている交通の便を改善するため、商店街にLRT(ライトレール)の線路を引いて、馬車道、みなとみらいとつなげようといったプランを掲げる市民団体もあるが、具体性に欠けているのが現状だ。

浜銀総合研究所

■ノスタルジーを感じる商店街として再生できるか

 新滝氏は「横浜市役所の北仲移転がどうなるか、その跡地利用も含めて、伊勢佐木町のまちづくりも変わってきます。もはや伊勢佐木町単独でまちづくりが決められるほどの中心性はなく、関内全体をどうするか、青写真が横浜市にも描き切れていないのがつらいところです」と、伊勢佐木町の苦悩を思いやる。しかし一方で、経営が立ち行かなくなれば、店舗を貸す、更地にして駐車場にする、マンションに建て替えると、不動産でなんとかなると楽観的に考えているのも、伊勢佐木町の空気なのかもしれない。
 何せ、特に1、2丁目では坪単価4万円で店舗貸しができるというのだ。だから、チェーン店しか入れず、街の特徴がなくなる弊害も生じている。 元町発祥の「不二家」の2号店、牛鍋の名店である「太田なわのれん」・「荒井屋」・「じゃのめや」、サンマーメン発祥の店とも言われる「玉泉亭」、カステラの「横濱文明堂」、ケーキの「浜志まん」、釜飯の「お可免」、昭和4年創業の老舗でふぐとうなぎの「濱新」等々、伊勢佐木とその周辺には老舗・名店が幾つも残っており、まだまだ捨てたものではない。

神奈川の老舗も数多く入るだけに閉店は寂しい

 親不孝通り・曙町、黄金町の風俗街も浄化によって勢いを失って、誰もが歩きやすい雰囲気になった今、明治、大正、昭和の懐かしさを感じる、風格ある商店街として伊勢佐木町が再生できるかどうか。

 核である横浜松坂屋が閉店してしまう状況下、全国に聞こえたかつての横浜のメーンストリートは、眠りから覚めて結束しなければ、消滅の危機にさえ立っていると警告を発しておきたい。

長浜淳之助 + ヨコハマ経済新聞編集部

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