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横浜開港資料館で「横浜山手のミッション・スクール」展ー制服の展示も

各学校の協力で集まった制服や通知表などの史料に足を止めてじっと見入る人も。

各学校の協力で集まった制服や通知表などの史料に足を止めてじっと見入る人も。

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 日本近代の幕開け、明治初期に横浜に創設されたキリスト教団による「ミッションスクール」の歴史を史料でたどる「ガールズ ビー アンビシャス~横浜山手のミッション・スクール」展が横浜開港資料館(横浜市中区日本大通3)で開かれている。

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 社会状況に影響されつつも、戦時を乗り越え、職業を持つ自立した女性を育成する教育方針を掲げて今も存続する5校を取り上げ、日本の女子教育に果たした役割を、約140点の資料で紹介している。

 今回紹介されているのは、「フェリス和英女学校」(1870年創立)、「共立女学校」(1871年)、「捜真女学校」(1886年)、「横浜英和女学校」(1886年)、「横浜紅蘭女学校」(1900年)の5校。

 展示は「江戸時代の女子教育と学制施行」「宣教師の来日と学校の創設」「条約改正とキリスト教」「女学校令とミッション・スクール」「関東大震災の発生から被災と復興」という構成。今回の資料の約8割は、各学校の収蔵品などを同資料館が借りて実現した。

 日本初のミッション・スクールは、現在の「フェリス女学院中学校・高等学校」(横浜市中区山手町178)の創設者、メアリー・キダーが、横浜・野毛付近で教え始めた「1870年」とされている。

 1859年7月に横浜港が開港後、キリスト教宣教師が続々と来日していたが「女子の布教が進まない」ということから「教育を通じて、キリスト教を伝える」いわゆる「伝道」(ミッション)を主軸とした学校づくりが推進されたという。

 各校の校舎は、アメリカやフランスなど、欧米からの寄付で建設され、寄宿舎も設けられた。展示では、本国とのやりとりや、生徒の出身地分布などを資料からたどることができる。

 また、関東大震災、横浜大空襲など横浜を襲った度重なる苦難から立ち直っていく過程や、キリスト教への風当たりが強くなった戦時中に「フェリス女学院」から「横浜山手女学院」に校名変更をしたことなど、厳しい時代にもミッションスクールの教育の灯(ともしび)を消さない運営に努めた学校関係者らの工夫が紹介されている。

 今回の展示を企画した同館学芸員の石崎康子さんは「英語や音楽を重視した教育が、卒業生たちの視野を広げ、経済的な自立を助け『アンビシャス・ガール』を育てた。ミッション・スクールが、横浜の女子教育に果たした役割を考える機会になれば」と話している。

 展示は4月19日まで。関連イベントとして、2月22日・3月11日・22日には、企画展を担当者の解説付きで見学した後、山手に今も残る4校の場所を見学するまち歩き「山手の丘に横浜女子教育の源流を訪ねて」(入館料・200円、参加費500円)、2月28日・3月7日・14日の毎土曜日に連続3回講座「英文資料にみる横浜のミッション・スクール」(参加費1,500円)が開催される。問い合わせは同資料館(TEL 045-201-2100)まで。

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