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開港150周年を機に“三渓園の生みの親”に学ぶ
横浜の歴史と浜っ子のアイデンティティ

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■横浜にゆかりのある有名人といえば?

実業と文化の両分野で大きな足跡を残した原三渓の業績を見直す機運が高まっている 横浜にゆかりのある有名人といえば――ゆず? 横山剣(クレイジーケンバンド)? 美空ひばり? はたまたサッカー日本代表の中村俊輔か、ハマの大魔神こと佐々木主浩か? それとも芸能・スポーツ関係でなければ、岡倉天心(美術評論家)や大佛次郎(作家)といったところだろうか。だが、横浜の歴史を語る上で忘れてもらっては困る歴史的人物がいる。それが、現在の横浜の基礎を作ったとされる“原三渓”だ。そして今、2009年の開港150周年を前に、実業と文化の両分野で大きな足跡を残した三渓の業績を見直す機運が高まっている。

 原三渓といえば、明治から昭和にかけて生糸貿易で財を成した当時の横浜の代表的な実業家。横浜市民にとっては“三渓園”でお馴染みかもしれない。そんな三渓の生涯や業績を検証し学ぼうというのが、昨年発足した“原三渓市民プロジェクト”だ。同プロジェクトは横浜市芸術文化振興財団と三渓園保勝会が中心となって実施しており、開港150周年の記念事業でもある。その事業内容は、2009年に原三渓の評伝の出版、三渓の旧蔵品の調査とデータベースの構築が大きな柱となっている。横浜美術館主席学芸員で大佛次郎記念館館長補佐の猿渡紀代子さんによれば、「実は、横浜市民にとって原三渓はほとんど顧みられていない存在」と話す。

横浜市芸術文化振興財団(ヨコハマ・アートナビ)

三渓園の生みの親として浜っ子にも馴染みが深い

 版画が専門のキュレーターである猿渡さんは長年、三渓をテーマにした展覧会の企画を温めてきた。「古美術品の収集家としても知られている三渓ですが、約8000点にも及ぶ旧蔵品が戦後散逸しているんです。そこで全国各地に散逸した旧蔵品を集め、横浜美術館での展示を企画していたんです。結果的に展覧会は実現しなかったのですが、このことをきっかけに開港150周年の記念事業として原三渓をテーマにした企画ができないか、と考えたわけです」。半ば忘れられた感のある三渓の足跡を、開港150周年を契機に経済・文化の両面から検証することこそ、単なる打ち上げ花火的なイベントよりも記念事業にふさわしいと考えたのだ。「歴史的建造物が数多く残る横浜ですが、そうしたハード面だけでなく人物などソフト面にももっと目を向けるべきです」。

横浜美術館

■「土地は自分のものだが、自然の風景は市民のもの」

 現在の横浜市民にとって、原三渓の存在が今ひとつ浸透していないのは、生前の彼の活動が多彩すぎてイメージがつかみづらいためかもしれない。そこで、三渓の生涯を簡単に振り返ってみたい。彼の多岐に渡る功績の一端が垣間見られるだろう。

「三渓園の土地は自分のものだが、自然の風景は市民のもの」と一般市民に開放

 原三渓は本名を富太郎といい、青木久衛の長男として1868年に美濃国厚見郡佐波村(現在の岐阜県岐阜市)で生を受けた。小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学び、上京。東京専門学校(現在の早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務めていた1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫・原屋寿子(やすこ)と結婚し、婿養子として原家に入る。横浜市を本拠地に絹の貿易により富を築く一方で、富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られた。1915年に帝国蚕糸の社長、1920年には横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取に就任。

 1923年の関東大震災では横浜市復興会の会長を務め、震災後の復興支援のために私財を投じた。瓦礫と化した街を前に、三渓は「横浜市の本体は市民の精神、市民の元気であります」と演説。この言葉は現在の横浜市のスローガンである「市民主体」「市民協働」の思想を80年前に先取りしていたと言えよう。また、実業の分野だけでなく、文化面でも多くの功績を残している。美術品の収集家として知られた三渓は、新進作家だった今村紫紅や小林古径など多くの芸術家を援助した。1906年には本牧に三渓園を造成し、全国の古建築の建物を移築。そして自邸にもかかわらず、「三渓園の土地は自分のものだが、自然の風景は市民のもの」と、三渓園を一般市民に開放する。戦後、三渓園は原家より横浜市に譲られ、現在は三渓園保勝会によって保存、一般公開されているのは周知の通りだろう。1939年、糖尿病が元で71歳の生涯を終える。

■園内の草花から石に至るまで三渓の美意識が徹底

開園100周年を迎えた一昨年には国の「名勝」にも指定

 原三渓が遺した三渓園は、広さ17.5万平方メートルに及ぶ日本庭園。ある年代までの横浜市民であれば、遠足のコースに必ず組み込まれていたので馴染みが深いはずだ。三溪自筆の書画や彼が支援した作家の作品などの美術品が所蔵されている他、室町時代の旧燈明寺三重塔をはじめとする京都や全国各地の古建築が移築されている。また、当時は新進芸術家の育成と支援の場となり、前田青邨や横山大観、下村観山などの作品が園内で生まれている。同園には、重要文化財建造物10棟、横浜市指定有形文化財建造物3棟があり、2000年にはコンベンションなどへの利用が可能な横浜市指定有形文化財「鶴翔閣(かくしょうかく)」が整備・復元されているが、開園100周年を迎えた一昨年には国の「名勝」にも指定。名勝とは、国にとって芸術上または観賞上価値の高い景勝地に対して、文部科学大臣が指定するものだ。三渓園は「近代の自然主義に基づく風景式庭園として傑出した規模・構造・意匠を持ち、保存状態も良好で、学術上、芸術上、鑑賞上の価値は極めて高い」と評価されている。

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夜桜のライトアップなど若年層の取り込みに余念がない

 そんな三渓園だが、年間の入場者は約50万人ほど。バブル期には60万人を超える数字を記録したこともあったが、バブル崩壊後はみなとみらい地区の開発など新たな観光スポットの登場によって次第に下降線を辿り、40万人弱まで落ち込んだ時期もあった。だが、前述した開園100周年や国の名勝指定などにより、現在の数字まで回復している。三渓園保勝会事業課の中島哲也課長は、次のように話す。「横浜市民における認知度という点では、まだまだかもしれません。周辺区にはある程度知られていますが、北部や若年層への認知度は低いですからね」。もちろん、三渓園保勝会もそうした状況にただ手をこまねいているわけではなく、最近は夜桜のライトアップやポピュラー音楽のコンサート開催などで若年層の取り込みに余念がない。「若い方々にはデートスポットとして人気も出てきましたし、情報誌などでも紹介されていますから」と話すのは、同事業課学芸員の清水緑さん。三渓園保勝会の理事であり、原三渓の伝記を著わした作家の新井恵美子さんも「園内の暗がりでキスをしている若いカップルに出くわしちゃったこともありますよ(笑)」と笑う。

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三渓園保勝会の中島課長と清水さん

 「三渓園の最大の魅力は、所蔵されている美術品や移築されている古建築もさることながら、園内の草花から石に至るまで全てにおいて三渓の美意識や哲学が行き渡っているところ。その証拠に、園内のどの景色を切り取っても絵になりますからね」と、三渓園の魅力を語るのは前出の猿渡さん。そして中島課長と清水さんは、そうした趣を凝らした“自宅の庭”を一般市民に開放した三渓の行為を称える。「三渓園が開園した明治時代は、まだまだ身分の差がありましたからね。そうした時代に自宅の庭を開放するなんて、本当にすごいこと」(中島課長)。

■横浜への尽力の根底には“妻への想い”

新井美恵子さんの著作『原三渓物語』

 様々な分野で功績を残した原三渓だが、その人となりはどのようなものであったのだろうか。そのあたりは、前出の新井美恵子さんの著作『原三渓物語』(神奈川新聞社刊)に詳しい。執筆に当たっては三渓の業績もさることながら、その人間的魅力によりスポットを当てることを心がけたという。「この仕事の話をいただいた時には原三渓のことなんて全く知らなかったのですが、資料を調べていくうちにすっかり三渓さんの人柄に魅了されちゃって……。今じゃ、講演会など頼まれればどこへでも出かけていって三渓さんの魅力を語っているんですよ(笑)」。

三渓の人間的な魅力を強調したかったという新井さん

 横浜復興のために私財を投げ打ったり、自邸の庭園を一般に開放したりした“無私の心”や生糸で財を成した実業家としての才覚だけでなく、三渓の男性的な魅力についても強調したかったという新井さん。とりわけ、妻の屋寿子との夫婦の交情を描きたかったという。「写真を見てもわかるように、三渓さんは今で言うところのイケメンでしょう(笑)。しかも、2人は明治時代には珍しく恋愛結婚なんです。新橋駅で偶然出会って結ばれたという……。何ともロマンチックじゃないですか。そして、あの時代の男性には珍しく、妻への愛情や感謝の気持ちをちゃんと言葉にするんです。そんなところも素敵だし、今の私たちから見ても親近感が持てますよね。私が三渓さんの言葉で一番好きなのが、『自分は横浜と生糸のためなら何でもする』という発言。これは単に横浜への想いだけではなくて、屋寿子さんを非常に愛していた三渓さんにとって横浜は妻の生まれた場所であり、妻と“同義語”なんですね。だから、横浜のために尽力したのはもちろん自分が住む地元だということもあるのですが、その根底には愛する妻への想いがあるわけです」。

■評伝が出版されているのに原典が世に出ていない不合理

 横浜の経済・文化・公共の分野で、多大なる功績を残した原三渓――。そんな三渓という“人間”を掘り下げることが狙いなのが、冒頭で述べた原三渓市民プロジェクトの事業の一つである三渓の評伝の出版である。実は、この評伝は三渓の生涯を取材したある技師の遺稿を読み解き、出版しようというもの。昨秋発足した研究者と市民らによる“原三渓市民研究会”が行う。原稿は1942~47年頃にかけて、横浜生糸検査所技師だった故・藤本実也氏が横浜商工会議所の依頼で著わした『原三渓翁伝』。三渓の死後、多くの関係者に取材した原稿用紙1,800枚にも及ぶ大作だったが、今日まで出版されず三渓園に保管されていた。

横浜の経済・文化・公共の分野で、多大なる功績を残した原三渓

 この“幻の評伝”は古くからその存在が知られており、大佛次郎記念館研究員で東京外国語大学の内海孝教授がかねてより出版の可能性を探っていた。「原三渓に関しては、いくつか評伝が出版されています。三渓の生きた時代を考えれば、直接取材することができないわけです。だから当然、原典から引用されているはずなのですが、どの評伝も原典が明らかにされていない。実は、藤本さんの遺稿こそがそうした評伝の原典なんです。しかし、原典は世に出ていないのに、それを引用した“評伝もどき”だけが世の中に出回っている。評伝の著者にとって、都合のいい部分だけが引用されて世の中に流通している。だが、それでは本当の意味での原三渓という人物の全体像が一向に明らかにならない。そうしたおかしな状況を何とかしたいと思い、藤本さんのご遺族とともに出版の道を摸索していた」。

 これまでにも何度も出版化を試みようしたものの、そのたびにネックとなったのが資金的な問題だった。それが今回、開港150周年の記念事業に組み込まれることによってその問題がクリアされたわけである。「これまで『原三渓翁伝』が出版されなかった状況というのは、横浜がいかに歴史というものを軽視してきた証拠ではないでしょうか」と、内海教授は指摘する。

■横浜は歴史や過去に興味のない街

 一方、「横浜は歴史に興味のない街」と話すのは、前出の猿渡さんだ。「以前、横浜が生んだ版画家の長谷川潔にちなんだ街歩きをしたことがあったのですが、その時痛感したのが石碑の少なさ。横浜は数々の著名人を輩出していますが、そうした人々にちなんだ石碑が街にほとんど見当たらない。街歩きの参加者たちも『地方では考えられない』と驚いていましたね。つまり、それだけ過去の歴史に関心が薄いということなのでしょう」。

 確かに、原三渓ほどの功績を残した人物であれば、横浜ではなく地方だったら“原三渓像”や“原三渓せんべい”“原三渓Tシャツ”などのようなものがあってもおかしくない。観光ビジネスと結びつきすぎて、少々あざとい気はするが……。だが、内海教授や猿渡さんが指摘するように、横浜という街は過去や歴史に無頓着なところがある。それは開港以来、進取の気性に富んだ市民気質もあるだろうし、異国の地から港へ次々と流れ込んでくる人や文物など未知なるものに対処するためには、過去を振り返るよりも常に前を向いていなければならなかったという歴史的な背景もあったかもしれない。

日本の歴史や文化を愛した三渓

 そうした市民の気質は、「3日住めば浜っ子」といった具合に横浜の開放性を示すという点では、プラスの方向へ働いてきたとも言える。しかし、開港150周年を迎え、そろそろ我々も自分たちの足元を見つめ直す時期に来ているのではないだろうか。「経済的な成長がそう見込めない現状では、今後の横浜の成長はハード的な政策よりもソフト的な政策が重視されるわけです。そこで問われるのは横浜市民としてのアイデンティティであり、横浜が辿ってきたユニークな歴史を学ぶことなのではないでしょうか。その意味では、公への奉仕と利他主義に徹し、日本の歴史や文化を愛した原三渓の生涯について検証することは開港150周年の記念事業にふさわしいものだと言えるでしょうね」(猿渡さん)。

牧隆文 + ヨコハマ経済新聞編集部

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