特集

個性と魅力ある街をつくるプロデューサーと
先駆的な横浜・都市デザインの歴史

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■まちづくりのキーワード「都市デザイン」とは

都市空間の総合的な魅力づくりや空間演出を図る「都市デザイン」の概念をいち早く取り入れた横浜市。それは、街の様々な要素をできるだけクロスさせ、ひとつの全体像としてまとめていくこと。街の多様な人々の間に立ち、コミュニケーションを重ねていくという地道な努力と、管理や所有区分をまたいで色調や素材を揃えていく総合的なプロデュースによって、それぞれ個性的な街が連なる横浜の都市像が作られている。今回は、横浜市で35年間にわたり都市デザインに取り組んできた国吉さんの半生を紹介するとともに、先駆的な横浜ベイエリアの都市デザインの歴史を掘り下げる。

■地域性と建築 ~横浜市との出会い

横浜市都市整備局部長上席調査役(エグザクティブアーバンデザイナー)・国吉直行さん(61歳)が、この3月末日に定年退職する。勤続期間35年。この間、市長は飛鳥田氏、細郷氏、高秀氏、現職の中田市長と4人変わり、所属部署の局名も企画調整室、都市デザイン室などと変化した。しかし国吉さんの活動は一貫して都市デザイン。異動の多い市役所の特質上、この長期間ひとつの仕事に携わることも異例だが、国吉さんが関わってきた横浜の都市デザインそのものも、かつて前例のない試みの積み重ねであった。この積層こそ、今の横浜の魅力をつくった経緯でもある。では、国吉さんはどのような人なのか、その半生を追っていきたい。

横浜市 都市整備局 都市デザイン室

国吉さんは早稲田大学建築学科出身。当時は建築家志望、それもヨーロッパのように地域性を育てる建築活動を、と考えていた。院生時代は建築学会の事業委員としても活動、街づくり提案コンペの企画実施をしていた。ある日、横浜駅と関内の間にある造船所を移動させる内容のコンペの開催を提案し、横浜市の資料を揃えていく中で、当時の横浜市企画調整室(都市デザイン室の前身)企画調整部長の田村明氏(現在法政大学名誉教授)と出会う。1970年のことだ。

造船所については既に横浜市も企画を進めていたので、コンペの開催は実現しなかったが、田村氏からの提案で本牧の米軍キャンプ場(現在の新本牧)の返還地についてのコンペの企画を任されることとなった。これが縁となり、国吉さんは大学院修了後の1971年、再び田村氏のもとを訪れる。当時、同級生と建築事務所を構え生計も成り立っていたのだが、ひとつの地域にこだわり、「地域性を育てる建築活動」に取り組みたいという想いがあった。そこで横浜市で2、3年、アルバイトでもいいから何かできないだろうか、と門を叩いたのだった。これまでの活動が評価されていた国吉さんは、すぐに嘱託研究員として迎え入れられ、同年夏には市の職員試験に合格、正職員として横浜市企画調整室に入庁した。

国吉直行さん 海岸通りのプロムナード エリスマン邸 日本大通りオープンカフェ

■市の職員は横浜市という街のプロデューサー

国吉さんが入庁する以前から、企画調整室では「市が市をプロデュースする」という目標に向かっていた。まず1965年に提唱された「6大事業」。都心部強化事業(みなとみらい21)、港北ニュータウン、冨岡・金沢地先埋立計画の「3つの面」と、ベイブリッジ、地下鉄、都市高速道路の「3つの線」が、その内訳だ。それまで公共事業では、市は国の下請け、という考え方が主流だった。しかし道路や公園など、街の様々な事業を各局がバラバラに行っていては、全体的な計画が実現できない。まずは都市デザインを担当する市の職員が、国と対等に意見を交わせる状況をつくり、市の主体的な考えのもとで総合調整していこう。しかも全てを横浜市の財政で行うのではなく、あくまでイニシアチブを市でとる、プロデューサーという立場となろう――国と地域との新しい関係性を築く横浜市企画調整室の試みは、当時のメディアにも大きく取り上げられるほど先進的で、話題となっていた。

また、1968年には、公的プロジェクトのプロデュース、開発のコントロール、都市デザイン(個性的な街並みづくり)という「3つの取り組み」が掲げられ、役所内でのデザインや開発それぞれの担当がひとつの場にまとまるシステムが構築された。これにより互いの状況を互いが把握し、総合的なプランナーとして街づくりに取り組めるようになった。こうした実験的な取り組みを自ら実践して示す田村氏の姿勢に、国吉さんも大いに刺激を受け、入庁当初の数年居られれば、という心境から、しっかりと腰を据える気持ちへと変わっていった。

時は高度経済成長期の真っただ中。横浜市でも1950年から1970年の20年間で、人口は100万人から200万人に急増した。そうした状況下だからこそ将来を見据えた都市づくりを進めた企画調整室だったが、開発過多とならぬよう調整区域を設定したり、開発事業者にも末永く丁寧な内容を要求したため、方々から煙たがられることもあったという。また、企画調整室内だけではなく、市の職員全体が一緒に都市づくりをすすめる意識を育てていき、国や事業者、住民ともコミュニケーションを重ねていくという、地道で気の長い作業でもあった。道路一つをとっても、国道、市道、私道など管轄が全て違う。特に戦後の自由主義の中で日本の都市はまとまりのない計画となりがちだった。しかし様々な要素をできるだけクロスさせ、ひとつの全体像としてまとめていくことが、平坦で安易な都市づくりとは違う「横浜らしさ」という個性の基盤ともなった。このように組織と組織、人と人をじっくり繋げていく企画調整室の試みにより、区域や管轄をまたいで色調や素材を揃えていくなど、総合的なプロデュースが可能になったのだ。

時間をかけ、丁寧に街が作られていく。このペースの背景には、横浜らしい特異な要因もあった。昭和30年代から40年代、横浜には米軍による接収地がまだ数多く残っており、それらは他の地域での接収地と違い、少しずつ返還されていたのだという。このため大規模な戦災復興開発ができなかったのだ。しかしこれが横浜らしさにつながる都市デザインへと活かされた。「今」に見合うものを一気に作ってしまっては、将来の変化に対応できなくなってしまう。少しずつ時間をかけた開発だからこそ、柔軟性のある余地を持たせられるのだ。一見デメリットと思われる状況も、結果として個性的な開発スタイルとなるよう、国吉さんのチームは前向きな姿勢で都市デザインに取り組み続けていった。

日本大通り入り口 日本大通り ZAIM 日本大通り 日本大通り アルテリーベ 日本大通り ギャルリーパリ

■19年後にも反応が返ってくる偉大な初仕事

国吉さんの入庁のきっかけともなった、横浜駅と関内の間の造船所跡地での都心部強化事業、「みなとみらい21」の計画が1965年から進められていた。「みなとみらい21」には多くの予算や人気が見込めるが、その両脇の街区、特に大きな駅の無い関内側をどうするか。そこで馬車道や伊勢佐木町、元町を快適に回遊できるようにし、人が歩くことにより街の活力を持たせる環境をつくろう。このような構想のもと、「都心プロムナード計画」が始まった。これにより、昭和49年から51年の3年間で、桜木町、関内、石川町の3駅からそれぞれ海側に伸びる歩道が整備された。国吉さん入庁後、最初の仕事のひとつである。

それまで道が悪くわかりにくい道路だったが、例えば馬車道ではボストンのフリーダムトレイルをヒントに歩道路面に絵タイルを施すなど、ただの整備ではなく、楽しくゆっくり歩ける歩道が整ったのだ。全体的に見ても、「みなとみらい21」という新しい街と既存の街区が分断されないよう配慮された。山下公園にみられる水際線の緑地、既存の道路、地元の個性的な商売人など、関内には様々な「街の文脈」が存在していた。これらを未来の都市に活かすこと、そして新しい街と既存の周辺地域を自然なかたちでつなぐ開発が進められた。他の街区でも、歴史的建造物を街の魅力として残して活用していくなど、今あるものの可能性を再発見しながら街がつくられるスタイルは、横浜の都市デザインの大きな特徴のひとつとなっている。

もうひとつの初仕事は、市役所脇の「くすのき広場」(1974年)。街の文脈のひとつとしてレンガに着目し、茶色と白をベースにした色調の統一感をもたらした。既存の建物の柱から路面のデザインを連続させたり、周辺のビルに対しても外壁の色調を合わせるよう協力を要請するなど、街全体として一体感が生まれるデザイン調整を行った。国吉さんは、この頃の自身の仕事を「実験」と呼ぶ。民間のビルにまで細かく協力を要請し、道路も建物もひとつのコンセプトへと向かうような都市デザインは、当時まだ日本では前例のないことだったのだ。この頃から国吉さんは、都市の個性と一体感が実現されるべく、行政、民間、道路や建物それぞれの管轄といった、都市デザインに関わるものすべてをつなぐ、コミュニケーターとしての役割を担っていた。

「くすのき広場」の19年後、1993年に国吉さんのもとへ、一本の電話が鳴る。周辺の民間ビルが、改修工事にあたり都市デザイン室の意見を聞きたいということだった。19年前に話していたことが、周辺の人々の中にも生きていたのだ。国吉さんのように、市役所の中でひとつの部署に35年勤続するのは、異例の事だ。しかしそれが幅広い人脈と信頼関係を生み、国吉さんは街づくりの「リソースバンク」のような存在と成り得たのだろう。「役所の人間になりたかったわけではない。異動の話も断り続けていた」。国吉さんがしたかったことは役人仕事ではなく、街づくり、そしてそのベースとなる人づくり、繋がりづくりだったのだ。

みなとみらい地区との対比 歩道路面の絵タイル 市役所脇の「くすのき広場」 市役所脇の「くすのき広場」 市役所脇の「くすのき広場」

■街づくりの主役はあくまで地元の人たち

都市デザインに関わり成果をあげていくうちに、地元の商店街からも「何かしたい」との声があがるようになった。しかし国吉さんは、市役所の人間として一手に引き受けることはしなかった。時には役所の肩書きを外し「アーバンデザイナー」として登場する。市の財政だけを使わないよう知恵を絞るため、また街の人々自らが考えて行動していけるためだ。そのかわり、人々が自ら街を変えていきたいと考えたとき、何をすべきか、何ができるか、どうしたらうまくいくか、そのノウハウを伝授していった。

例えば商店街独自のベンチや街灯、路面を舗装する素材など、街の人が自分たちで納得するものを選ぶようにする。市役所以外からの許可が必要なもの(道路については交通法の管轄である警察など)については、地元の人が直接、交渉に出向く。その結果、人々には自分たちで作った街だという意識が街とともに育ち、それは世代を超えながらも継承され続けている。また、ひとつの商店街での試みが評判を呼び、他の商店街も立ち上がるなど、どんどん波及効果が生まれていったのだ。

新しくすることだけでなく、歴史的建造物をはじめ、何かを残していく作業においても、人々の理解や協力が不可欠だ。街の景観を守っていく事により、誰かが不便を強いられる場合もある。しかし国吉さんは強制的にデザインを押し通すのではなく、協力に対してのメリットが生まれることについても気を配った。そして様々な協力が結果としてかたちになるという実績が積み重なり、結果的に横浜市も状況を汲み取り、財政を組み立ててくれるようになる。実績と効果の循環がうまく回るよう、まずは実践して見せていくのが、国吉さんの基本姿勢だ。

汽車道 大通り公園 大通り公園

■国吉さんの今後は・・・

最後に、国吉さんのこれまでの仕事を紹介しよう(国吉さんによる資料から抜粋)。

▼横浜市各地区の魅力形成のための多様な都市デザイン施策の開発と、35年の継続担当成果

・歩行者空間の魅力向上(プロムナード・広場・ストリートファニチャー・屋外彫刻整備)

・町並み景観形成(山下公園前面街区など地区毎のデザインガイドラインによる誘導)

・商店街の魅力形成(元町・馬車道・中華街などの総合デザイン調整と街づくり協定の運用)

・大規模プロジェクトのデザイン調整(「みなとみらい21」地区・新港地区・港北ニュータウン)

・夜景演出事業(ライトアップ・ヨコハマ)、都市の色彩計画、ミナト色彩計画

・歴史をいかしたまちづくり(要綱の運用)、開港シンボルゾーン整備事業

・第1回、第2回ヨコハマ都市デザインフォーラム(国際会議)開催企画運営

▼過去4年ほどの主要な取り組み成果

・ワールドカップサッカー大会に向けた歩行者サイン整備事業の総合調整

・山手西洋館活用事業調整

・日本大通り地区再整備事業調整(歴史的建造物の保存活用・道路空間の再整備演出)

・山下公園前面街区・日本大通り地区・山手地区の地区計画策定調整

・赤レンガ倉庫保存活用事業のデザイン調整

・水際線プロムナード「開港の道」整備調整

・地下鉄みなとみらい線の駅デザイン・サインの演出調整

・広告物付きバス停留所シェルター設置事業推進・事業システムの調整・デザイン調整

・歴史的建造物(旧富士銀行・旧第一銀行)芸術文化活用実験事業BankART1929

・日本大通オープンカフェ

・横浜市「魅力ある都市景観の創造に関する条例」策定

この活動実績、またそれにまつわるエピソードには枚挙のいとまが無い。しかもどれも「横浜らしさ」につながる、個性を活かした都市づくりの結果である。

これから注目のエリアは「象の鼻」地区。横浜港発祥の地だ。神奈川県庁から海に向かって大さん橋、赤レンガ倉庫を見渡す約4.0ヘクタールの一帯で、湾曲した地形からいつしかこの名称で呼ばれるようになった。2009年に開港150周年を迎え、水際線と緑地、また周辺建造物などの特徴を活かした計画が進められている。

横浜市港湾局 横浜港 象の鼻地区

横浜の特徴が凝縮したようなこの地域で、またひとつ、新しい横浜の顔が生まれそうだ。国吉さんは今後も引き続き、この「象の鼻」地区の再開発に関わっていく予定だという。3月末日で一旦退職だが「4月から新採用新人として、別のかたちで活動かな」と笑う。横浜と国吉さんの関係は、ますます深くユニークに進んでいくようだ。

田中元子 + ヨコハマ経済新聞

馬車道のロゴ 馬車道のアイコン 馬車道のジャズが流れるスピーカー 馬車道のベンチ 馬車道通りの歩道 馬車道の街頭マップ 注目のエリアは「象の鼻」地区 水際線と緑地、また周辺建造物などの特徴を活かす 湾曲した地形からこの名称がついた
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