特集

1枚の写真が訴える日本人が知らない「世界の真実」
「横浜国際フォトジャーナリズム・フェスティバル」開催

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■「報道とは何か」を問う写真展

日本人が知らない「世界の真実」を伝える報道写真

 赤レンガ倉庫一号館2階スペースに展示された報道写真の数々――戦火から逃げまどう人々、 突然訪れた死の瞬間、愛する人を戦禍で失った遺族の悲しみ、病に苦しむ人々の苦悶に歪む表情……。そこには、我々日本人が知らない「世界の真実」がある。国家間の戦争や地域紛争、環境問題などの最前線で取材に従事するフォトジャーナリストの写真を通して、「報道とは何か」を問う「横浜国際フォトジャーナリズム・フェスティバル2007」が、9月16日まで横浜赤レンガ倉庫と横浜市開港記念会館で開催されている。

横浜国際フォトジャーナリズム・フェスティスバル 横浜赤レンガ倉庫 横浜市開港記念会館

「報道とは何か」を問う写真展 同フェスティバルはフランスのペルピニヤン国際フォトジャーナリズム・フェスティバルをモデルにしたもので、単なる写真展にとどまらず日本中からフォトジャーナリストを目指す人々が集まるイベントを目指しているという。その趣旨の通り、今年で3回目を迎えるフォトジャーナリズム誌『DAYS JAPAN(デイズ・ジャパン)』による「地球の上に生きる」写真展を中心に、講演やワークショップなど多彩なイベントが行われている。

 ピューリッツァー賞の今年度受賞者レネ・C・バイヤーさんによる作品の解説や撮影会、未だ世界中のファンを魅了してやまない報道写真家ロバート・キャパが創設した写真家集団「マグナム」によるプレゼンテーション、ジャーナリストの江川紹子さんや文芸評論家の斎藤美奈子さんらを招いて日本の大手メディアが真実を語らなくなったのはなぜかを問う「どうなってんの日本のメディア」等々、フォトジャーナリズムに関心のある向きには見逃せないイベントが目白押しだ。

DAYS JAPAN マグナム・フォト

■世界の出来事に無関心な日本社会

 前述した通り、横浜国際フォトジャーナリズム・フェスティバルの最大の特徴は世界の現実を伝えるとともに、フォトジャーナリストの育成という目的にある。同フェスティバルの実行委員長で『DAYS JAPAN』編集長の広河隆一さんは「戦争の取材などで世界を回ると、日本人のジャーナリストが他国に比べると極端に少ないことに気づきます。日本では、世界で起きている様々な問題に目が向けられていません。また、それを発表していくような媒体もない。媒体がなければ、それを目指すような若い人も減っていくことになってしまいます」と、日本のジャーナリズムの行く末を不安視する。

広河隆一通信

日本のジャーナリズムの行方を不安視する広河さん 実際、わが国でフォトジャーナリズムを標榜しているメディアは、広河さんが編集長を務める『DAYS JAPAN』ぐらい。かつては新聞社系のグラフ誌などが存在したものの、売れ行きの低迷からか長らく休刊したままとなっている。こうした状況は、「掲載する媒体がない→生業としていけない→フォトジャーナリストを目指す若者が減る」という悪循環を招いている。「日本は社会に対する緊張感がないから、フォトジャーナリズムが育っていかない」――広河さんはこう話す。フォトジャーナリズムというと、我々は戦争報道のようなものを連想しがちだが、活字ジャーナリズムとの違いはどこにあるのだろうか。

 言うまでもなく、活字ジャーナリズムは日本語が中心の極めてドメスティックな形態である。もちろん、新聞の国際面などのように世界情勢を伝えるようなことはあるにはある。しかし、それはあくまでも国際情勢を日本人が日本語で日本人に伝えるのであって、日本人が世界へ向けてニュースを発信するようなケースは稀だろう。その意味では日本語という言語の壁があるだけに、活字ジャーナリズムというのは、ニュースの送り手も受け手もどうしてもそのスタンスが内向きになりがちなのは否定できない。そして、我々は「世界と日本」という図式で発想しがちだ。だけど、日本だって世界の一部のはず。言語の壁を乗り越え、1枚の写真で国政情勢への関心が薄い日本人世界中の人たちにニュースを伝えられるフォトジャーナリズムは、そんな世界とのつながりを実感させてくれる報道手段だと言える。だが言い換えれば、フォトジャーナリズムが衰退傾向にある日本は、それだけ世界で何が起こっているのかについて無関心な社会になっているのではないだろうか。広河さんの危機感も、そんなところにあるに違いない。

■9・11テロを契機に『DAYS JAPAN』を創刊

広河さんの思いが形になった『DAYS JAPAN』 そんな広河さんの思いをさらに強くしたのが、2001年に起きた9・11同時多発テロだった。「私たちが知らなければならなかった情報の多くが、私たちの元には届きませんでした。メディアの流した情報が、戦争への道を促した場合もありました。時代は危険な方向に突き進んでいます」。そして、ジャーナリストとして改めて痛感したのが「自分たちのメディアを持たなければならない」「被害者の立場に立った取材をしなければならない」ということだった。2004年3月20日、広河さんの思いを形にした雑誌『DAYS JAPAN』が創刊。

 同誌は(1)フォトジャーナリズムを中心とした雑誌(2)「権力の監視」というジャーナリズム本来の役割を担う雑誌(3)世界最高水準の「ドキュメンタリー写真」を掲載する雑誌(4)「人間の命と尊厳」「自然の環境」を守る雑誌(5)「差別、抑圧、飢餓、男性の女性に対する暴力」に取り組む雑誌――という5つの編集方針からなっている。そして毎号、表紙には「一枚の写真が国家を動かすこともある」というこの雑誌のテーマとも言える文言が記されている。

 広告収入など経済的な後ろ盾が全くない状況での出発だったが、現在では発行部数3万5000部を数える。雑誌のジャンルや大手出版社系ではない独立系メディアであることを考えると、この部数は驚異的であると言っていい。また広告収入に頼らないことで、大企業などの広告主に遠慮することもなく、事実をそのまま報じることもできる。ジャーナリズム本来のあるべき姿を担っていこうという意気込みが伝わってくる。

■拝金主義の風潮は報道の世界も無縁ではない

戦乱のイラクの惨状を伝える1枚 また、雑誌を創刊するだけでなく、「DAYS 国際フォトジャーナリズム大賞」も創設。前述のレネ・C・バイヤーさんのピューリッツァー賞受賞作品は、同大賞の2位だった。同大賞の表彰時期がピューリッツァー賞よりも早いことを考えると、バイヤーさんの2位受賞は「DAYS 国際フォトジャーナリズム大賞」の慧眼だと言える。このことからも同大賞のレベルの高さが窺えるが、広河さんには不満があるという。同大賞が日本のフォトジャーナリズムを活性化するために創設されたのにもかかわらず、残念ながら応募作品の9割は海外からのものだそうだ。

 こうした状況に、広河さんは現在の日本の若者、というよりは日本社会全体に蔓延する昨今の価値観や考え方に苦言を呈する。「最近の若い人たちは、すぐに年収いくら以上、月給いくら以上もらいたい、という考え方をする。最初はフォトジャーナリズムを志していた若者も、想像以上に食べていけない状況を目の当たりにして、すぐに諦めてしまう。本当にやりたいと思うのであれば、報酬などは二の次で、5年でも10年で大手マスコミでは実現不可能なジャーナリズムのあり方を目指しているもアルバイトをしながらでも撮り続けていけば……と思います。それだけの覚悟を決めて腰を据えてやれば、必ずモノになりますよ。 今の日本では、競争相手自体が少ないのだから」。

「勝ち組・負け組」という流行語が示す通り、拝金主義が蔓延する昨今の我が国の風潮は、報道の世界も無縁ではない。日本のジャーナリズムが国際報道に消極的なのも、カネの問題からだという。2004年、朝日、毎日、読売、共同通信といったいわゆる大手マスコミ各社が相次いで、イラクから撤退した。それは、「危険だから」という側面もあるにせよ、「コストがかかる割に儲からない」というのが大きな原因だったという。こうした戦争報道はショッキングであるため、初めのうちは耳目を集めやすいのだが、そのショッキングさゆえに飽きられてしまうのも早く、テレビなど意外に視聴率が振るわないのだとか。そして、その根底には、外国の出来事なんてしょせん他人事、という多くの日本人が持つ根強い意識があるのではないか。

■第三次中東戦争で目の当たりにした阿鼻叫喚の地獄絵図

「5年、10年アルバイトしてでも、なんて言うのは簡単だけど……」という向きもあるかもしれない。しかし、この発言は広河さんの実体験から生まれてきたものだ。そんな広河さんだが、もともとはフォトジャーナリストを志していたわけではないと語る。「大学時代はドキュメンタリークラブのようなサークルに所属していたのですが、フォトジャーナリストになろうなどという危険を顧ず撮影された報道写真の数々考えはありませんでした。ただ、世界中を見て回りたいという気持ちは強かったですね。卒業を前にしても就職ということは考えませんでした。それで大学卒業後、イスラエルに渡ったわけです」。

 1967年、イスラエルに渡った広河さんは、「キブツ」と呼ばれるイスラエル独自の共同体システムの中で、農作業に従事することとなった。後から振り返ってみれば、この時の経験が広河さんの人生の分岐点だったと言える。当時、中東で起きていたのが、別名「六日間戦争」とも「六月戦争」とも呼ばれる第三次中東戦争である。そして、この出来事は広河さんのフォトジャーナリストとしての拠りどころを形作るものだった。

 攻撃を受け逃げまどう人々、爆撃で負傷した人々――街は焼かれ、人々は火の海をさまよう。多くの罪のない子どもたちも犠牲になった。手足をもぎ取られ、たくさんの人々が死んでいった。報道に従事していた戦場ジャーナリストも同様だ。広河さんは、イスラエルでまさに阿鼻叫喚、地獄のような惨状を目の当たりにした。「第三次中東戦争での強烈な体験が、以降40年にわたって、私をこの問題に縛りつける大きな原因になりました」。

■フォトジャーナリストを目指す人たちのキッカケになれば

危険な場所に赴き写真を撮り続ける報道カメラマンたち その後、広河さんはイスラエルの通信社で働き始める。事実上、これがジャーナリストとしての出発点だった。帰国後、アルバイトなどで生活費を稼ぎながらイスラエルでの体験を「ユダヤ国家とアラブゲリラ」という1冊の本にまとめた。以来、フォトジャーナリストとしてパレスチナをはじめとする中東問題やチェルノブイリ原発事故など精力的に取材を行う。こうしてフォトジャーナリストになった広河さんだが、戦地を主な取材場所とするために命の危険にさらされたことは、1度や2度ではない。

「狙い撃ちされるような場面では不思議とそんなに恐怖感は感じないものなんです。それよりも怖いのは拉致です。連れ去られる恐怖は凄まじいものです。興奮の頂点にある犯人に銃口を突きつけられながら何時間も過ごしたこともあります」。広河さんが初めて拉致の恐怖を味わったのは1986年のことだった。実は、この拉致には理由がある。広河さんがイスラエルでパレスチナ人の子どもの救援活動、支援活動を行っていたからだ。当時は、ただそれだけで殺害対象になったのだという。

 広河さんは、取材対象を写真に撮るだけではなく、イスラエルでは「パレスチナの子供の里親運動」を、チェルノブイリでは「チェルノブイリ子ども基金」を立ち上げ、取材対象者を支援していく活動も並行して行っている。これらの活動は単に取材だけでなく、自らの問題として取材対象に積極的にコミットしていこうという広河さんのスタンスを示すものだ。そんな広河さんを物語るエピソードがある。1987年に広河さんがイスラエルで2度目に拉致された時、彼を救ったのはパレスチナの女性たちだった。 広河さんが拉致されたことを知ったパレスチナの女性たちが、大規模なデモを行った結果、広河さんの解放につながったのだという。

パレスチナの子供の里親運動 チェルノブイリ子ども基金

「フォトジャーナリストを目指す人のキッカケになるイベントになれば」と広河さんは話す

 幾度も死と隣り合わせの場面に遭遇し、寿命が縮まるような思いをしても、戦場や危険な場所に自ら赴き、写真を撮り続ける原動力はやはり第三次中東戦争の体験が大きいのだろう。広河さんにとってフォトジャーナリストとして生きていくことの「キッカケ」を手にしたのがイスラエル行きだったように、広河さんはフォトジャーナリズムを志す若者たちに何らかのキッカケを与えたいと考えている。それが、この横浜国際フォトジャーナリズム・フェスティバルというイベントなのだ。「フェスティバルを通して、世界では今、地球と人間の尊厳が脅かされるような出来事が数多く起こっているのだということを知って欲しい。そして、同時にそれがフォトジャーナリズムを目指す人や、フォトジャーナリズムの世界とは無縁だった人が目覚めていくキッカケになれば、と願っています。それが、日本のジャーナリズムを成長させていくための一助になると考えています」。

箕輪健伸 + ヨコハマ経済新聞編集部

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