特集

「闇市」精神がルーツ?
横浜の一大イベント「野毛大道芸」事情

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■野毛大道芸のはじまりと変遷

JR桜木町駅前にある野毛町は、戦後「闇市」として賑わい、桜木町駅が始発だった頃までは、飲食店を中心とした活気ある商店街だった。1964年、桜木町駅から磯子駅間(現・JR根岸線)が開通したことを皮切りに、市電の廃止、三菱造船所の移転など近郊の開発により年々客が減少。東急東横線桜木町駅の廃止計画も持ち上がり、街の地盤沈下が深刻化する。何とか街を活性化させるため、1983年、街の有志たちによる「野毛文化を育てる会」が発足。のちに「野毛地区街づくりを考える会」も設立される。1985年、二つの会が力を合わせ、露天画廊、大道芸を出し物に「春の野毛祭」を開催した。第2回が同年11月に行われたが、大道芸のほうが人気が高く、翌年1986年春に、大道芸をメインにした「第1回野毛大道芸ふぇすてぃばる」を開催、今年で第28回目を迎える。

野毛大道芸公式ホームページ

第1 回目の野毛大道芸では、20組26人の芸人に対し、3000人の観客が集まった。その後、芸人、観客数とも年々ふくれあがり、第3回目にしてすでに観客5 万人。この頃、まだ観客に投銭の感覚が定着せず、両替商が出ていたという。第5回目頃からフランスをはじめとする海外からのパフォーマーが増え始め、第 10回目には28人を数えた。投銭も定着してきたことから、芸人の間でもその盛況ぶりが評判となり、第13回目には国内外200組500人の芸人が集まる。この時観客12万人。第19回目ともなると、横浜市が主催者に加わり、「野毛大道芸ウィーク」として1週間のロングラン公演を開催。増えつづける観客と、出演を希望する芸人のために、この回からみなとみらい21地区へと会場が広がった。観客数50万人という空前の人出を記録したのが第24回。第26回目から伊勢佐木町地区も加わり、昨年第27回目には88万人もの観客を動員した。

みなとみらい21公式ホームページ

■野毛独特の投銭とボランティア

野毛大道芸では芸人に出演料はなく、芸人は「投銭」のみで稼ぐ。「投銭」とは大道芸に対する見物料のことで、観客がそれぞれの満足度に従ってお金を投じる。これは西洋型の大道芸で、野毛が戦後、定価のない「闇市」だったことから取り入れられた。西洋型は国内でも稀であり、大道芸を始めた当初は投銭も集まりにくかった。各国から集まる外国人パフォーマーのなかにも、投銭に対する温度差はあったようだ。野毛大道芸実行委員である山村氏によると「モンゴルや韓国のパフォーマーは、はじめ投銭というシステムに抵抗があったが、貨幣価値の高い日本円が集まるにつれ、馴染んでいった」という。芸人が2日間で、どれくらい投銭を集めるかは、申告がないため正確には分からない。過去、現代民謡の伊藤多喜雄さんがCDの販売も含め、2日間で200万円の投銭を集めたという話が残っている。最近の傾向としては「バブルの時代には万札も珍しくなかったが、今は千円札や硬貨が主流。ビール券などの金券や、宝くじ、お菓子が投げ込まれることも」と世相を反映して、観客数と集まる額の単純な比例図式は成立しない。また、ドル、ユーロ、元、ウォンなど各国の紙幣が集まることから芸人だけでなく、観客も国際色豊かだ。

野毛大道芸実行委員会が主催する野毛大道芸は、横浜松坂屋や三菱地所などの協賛を始めとする、様々な方面の協力を得て成り立っている。規模が大きくなるにつれ、予算も拡大、ほかに足りないものがあるとしたらマンパワーだ。何十万もの観客に対し、イベントを支えるボランティアスタッフは100人程度。このボランティアの手によるところが大きいのが、野毛大道芸の特筆すべき点だ。「野毛大道芸は街の人やボランティアによる手作りのお祭り。古くから参加している芸人のなかには、一緒に創りあげてきたという仲間意識もある」と山村氏は語る。

「大道芸をきっかけに、若い人たちが野毛に足を運ぶようになった」とは街の声。18年間続けてきたことで、街のPRとしての効果は十二分に発揮された感はあるが、みなとみらい線開通の影響を考えると、節目の年となりそうだ。今年、新たな試みとして、みなとみらい線馬車道駅を野毛の最寄駅に設定し、特設ステージを設置。野毛近郊の発展には目覚ましいものがあるが、周辺の地域ともうまく調和を図る試みで、今年も幕を開ける。

みなとみらい線公式ホームページ
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